墓地にて

「再生ボタン」を、我々は日常的に押下しているけれど、「再び生きる」とは何とも重い言葉だ。おそらく音響機器の輸入に伴い、「PLAY」の訳語として用いられたのだろうけど。

「PLAY」「STOP」はどこか「演じろ!」「止まれ!」という指示命令的な感じがあるけど、「再生」はそこで起きていること、現象だと思う。

そういえばコンピュータ・ゲームの「PLAY」は再生と訳さないし、なかなか面白い問題をはらんでいるけれど、ここでは深入りしません。

本を読むことを「再生」と言わないのは何故か。そこで起きていることは、紙に定着したインクとして、もう変わることのない文字の並びから、繰り返し「文意」なるものを立ち上げ、向かい合う行為。それは「再生」としか言いようがない。

一方、電子書籍のような形式がどこか信用できないのは、リロードしたら知らぬ間に文字の並びから文意までが変更されていてもおかしくないから。可変的であること、それはつまり、まだ死んでいない、生きているということ。生きているなら、断定も覆される可能性が残る。もちろんそれを「開かれている」と見れば悪くないけれど。

思いを、紙に印刷して、本のかたちに綴じて残し、後世に問う。どのように解釈されようとしても、変わらないものとして。「製本は建築に似ている」というけれど、私には「製本は墓づくりに似ている」ように思える。いつかその意志や考えに向かい合いたい人が現れたとき、「再生」してもらえるように、保護する。

*無事に青色申告が終わったので、お酒を飲みながら書きました。あしからず。